令和三年六月「生命の言葉」
神は人の敬(うやまひ)に依(よ)りて威(い)を増(ま)し
人は神の徳(とく)に依(よ)りて運(うん)を添(そ)ふ
『御成敗式目』
神さまを敬う人の
純粋な真心にふれ
神さまのご威光は
さらに輝きを増し
神さまの広き厚き
ご神徳のご加護で
人は導かれ運を開く
神さまと人とは
一方通行ではなく
お互いがお互いを
高めあう存在である
鎌倉幕府の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」
御成敗式目は、武家政権の最初の武家法で、貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。承久の乱後に鎌倉御家人と公家、荘園領主間に問題が多発し、貞永元年(一二三二年)に執権(しっけん)北条泰時(やすとき)により頼朝以来の先例と武家社会の慣習と道徳を基準に制定されたものです。
表面の言葉は、第一条の「神社修理し祭祀専らにすべき事」の条文に標記されています。この敬神の心は室町幕府・戦国の分国法、そして江戸へと受け継がれます。
神道知識の誘(いざな)ひ
源頼朝(みなもとのよりとも)と神道
源頼朝は神仏への崇敬心の厚い武将であったことは鶴岡八幡宮や三島神社への寄進など記録に明らかですがことに伊勢の神宮への崇敬は特別でした。鎌倉以前は国家の神祇(じんぎ)制度により「私幣禁断(しへいきんだん)(天皇以外は幣帛(へいはく)を奉ることを禁ずる)」であった神宮に対し、自ら御厨(みくりや)を寄進するばかりでなく、部下にも寄進を推奨したほどでした。こういった神社仏閣への積極的な関与は鎌倉の伝統として「御成敗式目」に引き継がれ、のちに庶民にも伝播していきました。庶民が自由に神宮への参詣ができるようになった要因は源頼朝によって導かれたといっても過言ではありません。