國領神社について

國領神社

社名

國領神社(こくりょうじんじゃ)

 

鎮座地

東京都調布市国領町1丁目7番地1

 

御祭神

主祭神 神産巣日神(かみむすひのかみ)
配祭神 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
    建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

神産巣日神(かみむすひのかみ)

天地開闢(てんちかいびゃく)の時、天之御中主神(あめのみなかぬし)、高御産巣日神(たかみむすび)の次に高天原(たかあまはら)に出現した造化三神の一柱である。万物の創造、生命の生成やその生成力で復活と再生をつかさどる神である。

神格
・天地創世など万物創造の神
・生成の神
 など

ご利益・ご神徳
・農耕守護(五穀豊穣)
・延命長寿
・無病息災
 など

別名・異称
・神産巣日神(かみむすひのかみ)(古事記)
・神皇産霊尊(かみむすひのみこと)(日本書紀)
・神魂命(かみむすひのみこと)(出雲国風土記)
 など

天照大御神(あまてらすおおみかみ)

古事記によると、伊邪那岐神(いざなぎ)が黄泉国から逃げ帰って禊をした際、左目をすすいだときに生まれた神である。月読命(つくよみ、右目をすすいだときに生まれた神)、須佐之男命(すさのお、鼻をすすいだときに生まれた神)とともに三貴子(みはしらのうずのみこ、さんきし)といわれ尊貴な神である。

神格
・太陽神
・皇祖神
・高天原の主神
 など

ご利益・ご神徳
・国土平安
・五穀豊穣
・生命力向上
 など

別名・異称
・天照大御神(あまてらすおおみかみ)(古事記)
・天照大神(あまてらすおおかみ、あまてらすおおみかみ)(日本書紀)
・天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのむちのみこと)(日本書紀)
・大日孁貴(おおひるめのむち)(日本書紀)
・大日孁尊(おおひるめのみこと)(日本書紀)
・日神尊(ひのかみのみこと)(日本書紀)
 など

建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)

古事記によると、伊邪那岐神(いざなぎ)が黄泉国から逃げ帰って禊をした際、鼻をすすいだときに生まれた神である。
神名にある「建」「速」は、勇猛さを意味し、「スサ」は荒ぶ(すさぶ)、凄まじい(すさまじい)などに通じる言葉で、粗暴な行いやその名の通り猛々しい神とされているが、農業の神、穀物の神、五穀豊穣、厄除け開運、縁結びの神でもある。

神格
・農業の神
・穀物の神
 など

ご利益・ご神徳
・五穀豊穣
・厄除け開運
・縁結び
 など

別名・異称
・建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)(古事記)
・須佐能男命(すさのおのみこと)(古事記)
・須佐之男命(すさのおのみこと)(古事記)
・素戔嗚尊(すなのおのみこと)(日本書紀)
・神素戔嗚尊(かむすさのおのみこと)(日本書紀)
・速素戔嗚尊(はやすさのおのみこと)(日本書紀)
・武素戔嗚尊(たけすさのおのみこと)(日本書紀)
 など

『古事記』の神話

伊邪那岐命が黄泉の国から帰還し、筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊を行った際、天照大御神、月読命に次いで鼻を濯いだときに産まれ、夜の食国または海原を治めるように言われたたが気に入らず、そこを追放される。
姉の天照大御神がいる高天原へ行ったが、粗暴を行っつたことで天照大御神は恐れて天の岩屋に隠れてしまったため、スサノオは高天原を追放された(神逐)。
出雲の鳥髪山(現在の船通山)へ降り立ったスサノオは、その地を荒らしていた巨大な怪物 八俣遠呂智(やまたのおろち)へ生贄にされそうになっていた美しい少女 櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。
スサノオは、クシナダヒメの姿形を歯の多い櫛に変えて髪に挿し、ヤマタノオロチを退治する。そしてヤマタノオロチの尾から出てきた草那藝之大刀(くさなぎのたち、紀・草薙剣)を天照御大神に献上し、それが古代天皇の権威たる三種の神器の一つとなる(現在は、愛知県名古屋市の熱田神宮の御神体となっている)。その後、櫛から元に戻したクシナダヒメを妻として、出雲の根之堅洲国にある須賀(すが)の地(中国・山陰地方にある島根県雲南市)へ行きそこに留まった。
そこで、
夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁微爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁(古事記)
夜句茂多菟 伊弩毛夜覇餓岐 菟磨語昧爾 夜覇餓枳都倶盧 贈廼夜覇餓岐廻(日本書紀)
八雲立つ  出雲八重垣   妻籠に   八重垣作る   その八重垣を
やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを
と詠んだ。
これは日本最初の和歌とされる。


蘇民将来『備後国風土記(逸文)』

北海の武塔神(むたふ(むとう)のかみ、むとうしん)が南海の神の娘と結婚しようと旅に出たところ日暮れになり宿を求めたが、裕福な弟の巨旦将来は断り、貧しい兄の蘇民将来は粗末ながらも持て成した。
後に再訪した武塔神は、蘇民将来に「我は速須佐雄能神(はやすさのおのかみ)である。後の世に疫病が流行っても、『蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付ける者』は、疫病から免れるだろう」と、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えたとする。

 

由緒

國領神社は、國領神社(第六天社)と神明社(八雲神明社・杉森神明社)の二社を合わせた神社です。

國領神社と神明社の創建年月については共に不明です。

國領神社は以前は第六天社と称し、古代多摩川のほとり(杉森1289、1288、1268)に鎮座していました。
第六天社は薬師寺(現常性寺)の管理下の頃、祭神は薬師如来の守護神十二神将の内の第6番目の第六天神でした。
甲州街道が整備される江戸時代初期の頃、常性寺が甲州街道沿いに移設されたとき、同じく調布町大字國領148番地(現在の調布市八雲台1丁目・八雲台小学校裏の都営住宅の所)に遷座しました。
神仏分離の明治2年に寺から分かれ村有となり、祭神を神産巣日神とし、國領村の鎮守として崇敬されていました。
明治4年10月に村社に列せられ、明治8年10月に國領神社と改称しました。

「新編武蔵風土記稿」によると
多摩郡 府中領 國領宿
第六天社 小社 当宿ノ鎮守ナリ 除地ノ内北方ニアリ 本堂ヲ距ルコト凡二町

「國領神社取調書上帳」によると
武州多摩郡國領宿
一、鎮守國領神社 一座 社殿六尺四尺
 社地壱畝歩除地御検地帳ニ者御書無御座候、祭礼毎年九月十二日最寄神職相頼執行仕候
  明治二年巳二月

「社寺取調書(妙)」によると
第十大区七小区
武蔵國多摩郡 國領宿
 國領神社元除地現今境内
 旧反別五畝歩
一、改正反別三畝拾歩
 同社境外 先年大縄場上知
 旧山反別五畝廿歩
一、改反別五畝拾五歩
  此地代金壱円六拾五銭
    但貢租反金壱銭二厘五毛 地金三円

  明治八年七月

神明社も、古代多摩川のほとり杉森の地(杉森1095)にありました。
杉森の地にあったことから杉森神明社とも呼ばれ、また八雲台の地にあった頃は八雲神明社とも呼ばれていました。
創建は不詳であるが、荻窪、小川、小林の一族が鎌倉より移住し、国土の安泰、五穀豊穣を願い創建したと伝承されています。
神明社も薬師寺(現常性寺)の管理下にあり、祭神は建速須佐之男命で、明治42年11月17日に天照大御神を合祀して一緒に奉られていました。
甲州街道が整備される江戸時代初期の頃、常性寺が甲州街道沿いに移設されたとき、同じく調布町大字國領字八雲台182番地(現在地である調布市国領町1-7-1)に遷座しました。

「新編武蔵風土記稿」によると
神明社 社地除 一畝一八歩 小社 上ノ北裏ニアリ

「國領神社取調書上帳」によると
一、神明社 一座 社殿六尺四尺
 除地弐畝拾五歩余有之、御検地帳ニ者御書載御座なく候得共、享保年中御沙多(汰)ニ相成神明除地与記無之由来之義者、玉川耕地当宿神明古社杉森与相唱江候地ニ住古建立無之候処、甲州道中御開発之節氏子者玉川縁耕地ヨリ往還端迄引越候、右社の義も当社地より引移申候趣書記有之候、什器義は雷之撥与申伝へ石にて壱尺壱寸廻り丈弐尺程之太鼓形之者二本有之、右何等之子細ニ御座候年来相云(伝)候一切相分不申候、祭礼之義者毎年九月十二日より二十一日迄之内二修行仕候、任官祭礼者氏子の申合補佐之神職相頼執行来候

「社寺取調書(妙)」によると
 神明社元除地現今境内
 旧反別弐畝廿五歩
一、改反別八畝九歩

しかし、時代の推移で、國領神社の境内地近隣に都営住宅の建築計画の為、やむを得ず境内地を移譲しました。
その浄財を以って神明社境内地に社殿を造営、昭和38年10月12日に竣工遷座祭を執り行い、國領神社と神明社とを合祀、社名を國領神社と総称して現在に至っています。

JAマインズ 広報誌「マインズ」 地域の歴史 村と鎮守様略記17

 

例祭日

  1月12日  歳旦祭
  2月節分  節分祭
  2月12日  祈年祭
  4月12日  春季例大祭
10月12日  秋季例大祭(神幸祭は体育の日の前日の日曜日)
11月12日  新嘗祭
12月31日  大祓祭

 

末社

稲荷神社(境外末社)